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20年後

2023-09-29
※いつもとはテイストの違う、ある職員の思いを紹介させていただきます。
私も読んでみて考えさせられるところがありました!



「あなたは20年後、何をしていますか?」

私が好きなドラマの中で、34歳の主人公が、急に街頭インタビューを受けて戸惑うシーンがある。
彼女はその後、煮つまった末、同居している「教授」と会話を交わす。

……

「教授、さっきおっしゃってたじゃないですか。一寸先は闇だって」

「うん」

「私は……自分の20年後が、見えるんですよね。あんまり幸せそうじゃない自分が、見えるんです」

「それは、今あなたが思ってるだけの未来でしょう?本当はどんな20年後が待ってるかなんて、誰にもわからないんじゃない?」

「でもだいたいのことは、想像できますよ」

「じゃああなたは、ハピネス三茶(主人公や教授が住んでいるところ)に住むことになるなんて、思ってた?」

「それは…」

「あなたはハピネス三茶に来て、楽しい?」

「はい。楽しいです。とっても」

「それは、どうして?」

「どうして……」

「20年先でも今でも、おんなじなんじゃないかしら。自分で責任取るような生き方をしないと、納得のいく人生なんて、送れないと思うのよ」

(セリフはうろ覚えです)

……

私はと言えば、20年前、自分がこの仕事に就いていることを、想像すらしていなかった。
そして就職する前、自分に期待していたこと、他人に期待していたこと、なんとなくの理想、そんなものはすべて、気持ちよく砕かれた。それでもぐずぐずとこの場に留まっているわけだが、こんな働き方をしていることだって、もちろん想像していなかった。

期待が叶わないのなら、まず、諦めることから始めようと思った。
でも、それが意外と難しかった。

思いを受け取ってもらうこと、目に見える結果が出ること、認めてもらうこと、忘れないでいてもらうこと、帰ってきてもらうこと……人間ってどうしても、そんなふうに「報われること」を望んでしまう生きものなんだと思う。報われなくても、信念に基づいて挑み続ける、そんなあり方が、本当は理想なのかもしれない。でもそれは、何の補給もなく砂漠をマラソンするようなもので、長く続くものではないと思う。いつまでも終わらない片想いはつらい。

だから、いつか報われることを信じてやってもいい、という気持ちに近頃はなってきた。いつかわからなくても、どんな形であったとしても、やはり報われたい。もしかしたら、いまだに、腹をくくれていないということなのかもしれない。1か月先のことすらなにも見えない。それでも、報われることをどこかで信じていたいと思う。

どんな人であっても、どんなにダメでも、離れるときには、ここにいてよかった、ここで働いてよかったと思ってほしい、そう望んでしまうのはずっと変わらない。それが私の、なけなしのプライドである。ならば自分は、自分にできるベストを最後まで尽くし続けようと思う。それが私なりの責任の取り方なのだとも思う。その結果、思いもよらないことが思いがけず起きる、そういうのがきっと楽しいのだろう。

そして自分が20年後何をしているか、それはやはり、まったく見えない。

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